皆さんは夏目吉信(別名・夏目広次)を、ご存知でしょうか?この記事の内容を簡単にまとめますと以下のとおりです。
- 夏目吉信の死因は、三方ヶ原の戦いによる戦死
- 夏目は、三河一向一揆で家康を一度は裏切ったものの、その後帰参を許されて、家康の命を救った
- 夏目吉信が亡くなった後、家康は天下統一を実現し、260年におよぶ平和を実現した
この記事では夏目吉信を、わかりやすく、カンタンに解説いたしました。
今は夏目吉信について、漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。
これを読めば、誰かに説明できるほど、夏目吉信に詳しくなれます。
歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。
どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
夏目吉信の死因と最後
夏目吉信の死因
夏目吉信(別名・夏目広次)の詳細な死因は不明ですが、三方ヶ原の戦いで戦死しています。
1573年1月25日(元亀3年12月22日)、徳川家康と武田信玄のあいだで起こった三方ヶ原の戦いで、夏目吉信は主君の徳川家康の身代わりとなり、壮絶な戦死を遂げているのです。
夏目吉信とは、どんな人なの?
夏目吉信とは、古くから松平家(のちの徳川家)につかえていた夏目家の武将です。
体育会系な三河武士団のなかでも、夏目吉信は武勇に優れていたらしく、今川家との戦いで殿(撤退の際に最後尾に位置して逃げる味方を守る役割)をつとめて、六度踏みとどまって味方を守ったといいます。
1563年、三河一向一揆の際に、夏目吉信は主君である家康を裏切って一向宗と農民一揆の軍団に味方したものの、その罪を許されて家康の部下として帰参することに成功しています。

《徳川家康》
「引用元ウィキペディアより」
1573年、三方ヶ原の戦いで、夏目吉信は徳川家康の身代わりとなって戦死し、その忠節を後世までたたえられています。
夏目吉信の勇敢な最期の様子とは?
1573年、夏目吉信は三方ヶ原の戦いで、絶対絶命の危機に陥った主君の徳川家康を守り、身代わりとなって戦死しました。
1572年、武田信玄は京都へ向けて甲斐国(山梨県)から進軍を開始。

《武田信玄》
「引用元ウィキペディアより」
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徳川家康が住む遠江国(静岡県西部)の浜松城に向けて進軍を開始しました。
浜松城を攻撃するのかとおもいきや、信玄は浜松城を攻撃せず素通り。
家康に背を向ける形で西へ進軍を続けたのでした。
武田信玄の軍団の背後を突く絶好の機会と考えた家康は、11000人の軍を率いて武田軍へ追い討ちをかけます。
ところが、信玄はこれを予測しており、25000人の軍団を三方ヶ原に展開させて、徳川家康を待ち受け迎え撃ったのです。
この戦いは、徳川家康の大敗でした。
このとき、夏目吉信は浜松城の守備をつとめていました。
城から主君・家康が大敗する有様を見ていた夏目は、家康を救うために浜松城を出撃。
家康のもとに到着した夏目は、撤退するように家康に進言するものの、家康はかたくなに撤退を拒絶。
それどころか、決死の突撃をしようとするほどでした。
夏目は、怒りのあまり死のうとする家康を救うために、無理やり家康が乗っていた馬の向きを変えて、その馬の尻を刀のみねで叩き、強引に逃したといいます。
その後、夏目吉信は大声で【我こそは徳川家康】と叫び、十文字槍を持って25騎の部下を引き連れて、武田軍団に突撃したのでした。
壮絶な戦いを繰り広げた夏目吉信は、家康の身代わりとなって戦死。
家康は無事に、浜松城へ逃亡することに成功。

夏目吉信の碑
静岡県浜松市中区布橋
引用元Wikipediaより
三方ヶ原の戦いで、武田軍の死傷者は200名ほど。徳川軍の死傷者は2000人とされています。
本多忠勝の叔父・本多忠真も、この三方ヶ原の戦いで戦死しています。
家康が逃亡するにあたり、家康を守るために戦った武士たちの中には、敵に背を向けて死ぬ者など一人もいなかった・・・と言われたほど。
これ以降、家康は家臣たちに生かされていることに気がついたのか、家臣たちをとても大切にするようになります。
「私の宝は三河家臣団」
というほど、家康は家来たちを大事にしたのでした。
夏目吉信は裏切り者だった?三河一向一揆での裏切り
1573年の三方ヶ原の戦いで、命を投げ出してまで家康を救った忠義者・夏目吉信ですが、実は1563年の【三河一向一揆】のときに、家康を一度裏切っているのです。
徳川家康には、人生において三度の危機がありました。
- 1563年、三河一向一揆
- 1573年、三方ヶ原の戦い
- 1582年、神君伊賀越え
このなかで、三河一向一揆では、家康は部下たちに次々と裏切られています。
- 渡辺守綱
- 本多正信
- 夏目吉信
など、裏切った武将は数多いのです。
三河一向一揆は、一向宗(現在の浄土真宗)と呼ばれる宗教勢力と農民が起こした一揆(農民反乱)です。
当時は、極楽や地獄という非科学的なものが本気で信じられていたので、夏目吉信も信仰と主君・家康を天秤にかけて、信仰を選んだのでしょう。
主君と神を天秤にかけて、神や仏を選ぶ気持ちもわかります。
ところが、三河一向一揆が家康によって鎮圧されると、渡辺守綱も夏目吉信も、罪を許されて家康の部下として帰参を許されています。
夏目吉信はこのときの恩を忘れなかったのでしょう。
見事にその命をもって、家康の恩に報いたのでした。
残された功績と教訓について
夏目吉信の死因は、敵軍・武田勢との戦闘中に討ち取られたことによります。
彼の犠牲によって、家康は生き延びることができ、後の成功を築く基盤ができました。
夏目吉信の死は、家康にとって大きな痛手であり、その忠義は歴史に名高く伝えられています。

夏目吉信の墓
(愛知県額田郡幸田町・明善寺)
引用元Wikipediaより
夏目の忠義と勇敢さは、戦国時代の武将として、また家康を支えた重要な存在として後世に語り継がれています。
彼の遺した功績は、家康の生き延びたことがそのまま徳川家康の成長と、徳川幕府の成立につながりました。
また、夏目吉信の最期からは、忠誠心や勇敢さがいかに重要であるか、そして、時には自分の命をかけても大切な人や信念を守ることの大切さを学ぶことができます。
この教訓は、現代においても私たちにとって大切な価値観として受け継がれているでしょう。
このように、戦国時代の勇士・夏目吉信の最期と死因を詳しく知ることで、彼の功績や教訓を学び、現代に生きる私たちにも役立てることができるはずなのです。
夏目吉信の死後に起こった出来事とは?
夏目吉信が亡くなった後、家康は天下統一を実現させ、天下泰平を実現しています。
夏目吉信の決死の活躍によって、家康はその命をつなぎ、その後も勢力拡大を続けることになります。
1582年には、三方ヶ原で大敗を喫した武田信玄の息子・武田勝頼を討ち取ることに成功し、武田を滅ぼしています。
このとき、武田の武士たちを家来として召し抱えた家康は、のちに【野戦の名人】と呼ばれるほどの、とてつもない強さを身につけたといいます。
- 1582年、天正壬午の乱で、徳川軍8000は北条軍35000を撃破。
- 1584年、小牧長久手の戦いで、豊臣秀吉の軍団を撃破。
- 1600年、関ヶ原の戦いで、石田三成ひきいる東軍を撃破。
- 1614〜1615年、大坂の陣で、真田信繁(幸村)の軍団を撃破し、豊臣家を滅亡へ追い込み、天下泰平を実現。
こうして家康は、のちに江戸幕府260年の平和をつくりあげることに成功したのです。
夏目吉信がいなければ、260年の平和な時代は、なかったかもしれません。
余談かもしれませんが、明治の文豪・夏目漱石は、夏目一族の子孫を自称していました。(夏目吉信の同族の子孫である可能性もある)

夏目漱石
引用元Wikipediaより
夏目吉信の直系子孫である可能性もあり、もしかすると夏目漱石は、夏目吉信の直系子孫であるかもしれないのです。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 夏目吉信の死因は、三方ヶ原の戦いによる戦死
- 夏目は、三河一向一揆で家康を一度は裏切ったものの、その後帰参を許されて、家康の命を救った
- 夏目吉信が亡くなった後、家康は天下統一を実現し、260年におよぶ平和を実現した
以上となります。
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