皆さんは人気マンガ【キングダム】に登場する桓騎を、ご存知でしょうか?この記事の内容を簡単にまとめますと以下のとおりです。
- 桓騎は紀元前237年に秦の将軍に任命され、233年に李牧に敗北するまで、趙国攻略で活躍していた
- 桓騎は紀元前233年、肥下の戦いで趙国の将軍・李牧に敗北し、身分を剥奪された(戦死説もあり)
- 桓騎には、樊於期と名前を変えて生き延び、227年の秦王・嬴政暗殺未遂に協力したという説がある
この記事では史実における桓騎の活躍を、わかりやすく、カンタンに解説いたしました。
今は桓騎について、漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。
これを読めば、誰かに説明できるほど、桓騎に詳しくなれます。
歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。
どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
桓騎の生涯年表
- 紀元前237年、秦国の将軍になる
- 紀元前236年、王翦や楊端和とともに趙国の都市・鄴を攻撃
- 紀元前234年、趙国の都市・平陽と武城を攻撃し、趙国の将軍・扈輒を討ち取る
- 紀元前233年、趙国の赤麗と宜安を攻撃し、肥下の戦いで趙国の将軍・李牧に敗北(戦死また敗走)
- 紀元前227年、桓騎と同一人物説のある樊於期が自害し、秦王・嬴政暗殺未遂に協力するが失敗
【紀元前237年】桓騎が将軍になる
漫画【キングダム】では、野盗の頭目として登場し、【首斬り桓騎】の異名を持つ名将・桓騎ですが、史実において初登場するのは、【紀元前237年】です
のちの始皇帝・嬴政が、秦国の相国(最高位の大臣)であった呂不韋を追放したこの年に、桓騎は将軍に任命されているのです。
【紀元前236年】、始皇帝の母と愛人関係にあった嫪毐が反乱を起こして処刑されます。
その翌年の【紀元前237年】、嫪毐の反乱に連座する形で、呂不韋が追放されたのでした。
この頃、秦国では呂不韋を相国とする支配体制から、秦王・嬴政による独裁体制が強化されていました。
そんな中で、桓騎も秦王の目に止まり、将軍に抜擢されたものと考えられます。
【紀元前236年】趙国の都市・鄴を攻撃
【紀元前236年】、桓騎は同じく秦国の将軍だった王翦や楊端和とともに、趙国の都市・鄴を攻撃しています。
このときの桓騎の立場は、王翦の副将であったと考えられます。
この頃、秦国は国境を接していた趙・魏・韓と戦争を繰り返し、天下統一を目指していたのです。

《戦国七雄》
「引用元ウィキペディアより」
王翦は、趙国の重要拠点であった鄴を攻撃。
桓騎に鄴の包囲をまかせて、周囲の9つの城を攻略します。
そして、鄴のみならず、閼与という重要拠点を陥落させることにも成功しています。
これにより趙国は、さらに瀕死の状態へと追い込まれることとなりました。
【紀元前234年】趙国の武将・扈輒を討ち取る
【紀元前234年】、鄴を攻略した2年後、再び桓騎は軍をひきいて趙国を攻撃し、敵将の扈輒を討ち取っています。
目指したのは趙国の軍事拠点であった平陽と武城。
これを迎え撃ったのは、趙国の将軍・扈輒でした。
扈輒は10万の趙軍をひきいて桓騎を迎え撃ったものの、武遂で大敗
敗北した趙軍10万は、ことごとく首を討たれたといいます。
【紀元前233年】肥下の戦いで李牧に敗北し戦死
【紀元前233年】、桓騎は趙国の将軍・李牧に大敗して亡くなります。
前年の大勝利に続き、桓騎は趙国の赤麗と宜安を攻撃します。
これを撃退するために趙国の将軍・李牧は軍を率いて出撃。
桓騎の軍団と宜安という地で激突します。
桓騎は戦いの最初こそ、趙国の敵将を討ち取るという功績をあげたものの、その後、肥下の戦いで李牧の軍団に大敗北します
歴史書【戦国策】には、この戦いで桓騎は戦死したとされています。
ところが、別の歴史書【史記・廉頗藺相如列伝】によれば、桓騎はこの戦いでは死なず、敗走したあと秦王・嬴政によって身分を庶民に格下げされたということになっています。
生き延びたとすれば、その後の桓騎の行方は不明です。
しかし桓騎には、不思議な生存説があります。
【紀元前227年】秦王・嬴政暗殺未遂事件
【紀元前227年】、燕国の太子だった丹という人物と、暗殺者・荊軻がくわだてた秦王・嬴政の暗殺未遂事件に、桓騎が関わっていたという説があります。
2005年にお亡くなりになられた中国の歴史家・楊寛という人が、桓騎と樊於期という人物とが、同一人物だという説を唱えたのです。
秦王・嬴政の暗殺未遂事件は、趙国が滅亡したことで、秦国に滅ぼされることに危機感を抱いた燕国の王子・丹が、荊軻という暗殺者をつかって企てたものです。
ところが身分が低く、秦王・嬴政に近づけなかった荊軻は、軍の編成について秦王に反対意見を述べてお尋ね者になって燕国へ亡命していた樊於期に、協力を要請したのです。
秦王に恨まれている樊於期の首を持っていけば、荊軻は秦王に会うことができるだろう。そのため、樊於期に自害して、その首をくれと、荊軻は頼んだのです。
家族を秦王に皆殺しにされていた樊於期は、これを承諾し、自害。
樊於期の首を土産して、荊軻は秦王に会い、暗殺をしようとしたものの失敗し、逆に秦王・嬴政に討たれてしまいます。
この樊於期が、中国語での名前の発音が極めて似ているなどの理由で、桓騎と同一人物なのではないかというのです。
ちなみに、この暗殺未遂事件が起こったあと、秦国は燕国を攻撃。
秦王暗殺未遂事件の首謀者であった太子・丹は、秦国の猛将・李信による猛追撃を受けて恐怖した、燕王喜によって討たれています。
太子・丹は、秦王・嬴政とともに、趙国で生まれ育った唯一の親友だったといいます。
その後、燕国は秦国の猛攻を受けて滅亡しています。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 桓騎は紀元前237年に秦の将軍に任命され、233年に李牧に敗北するまで、趙国攻略で活躍していた
- 桓騎は紀元前233年、肥下の戦いで趙国の将軍・李牧に敗北し、身分を剥奪された(戦死説もあり)
- 桓騎には、樊於期と名前を変えて生き延び、227年の秦王・嬴政暗殺未遂に協力したという説がある
以上となります。
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