皆さんは浅井長政を、ご存知でしょうか?この記事の内容を簡単にまとめますと以下のとおりです。
- 浅井長政とは、織田信長をあと一歩のところまで追いつめた戦国武将
- 長政は、信長の妹であるお市の方を妻としたが、信長を裏切り追いつめた
- 長政の子孫には、豊臣秀頼や徳川家光がいる。現在の天皇陛下も子孫にあたる
この記事では浅井長政を、わかりやすく、カンタンに解説いたしました。
今は浅井長政について、漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。
これを読めば、誰かに説明できるほど、浅井長政に詳しくなれます。
歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。
どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
浅井長政の功績!何した人なの?
【結論】浅井長政とは、義兄・織田信長を追いつめた戦国時代の武将
浅井長政は、戦国時代に活躍した武将であり、天下統一目前まで勢力拡大した織田信長を苦しめた人物です。

《織田信長》
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「引用元ウィキペディアより」
長政は当初、織田信長の同盟者でした。
信長の妹・お市の方を妻とし、信長の天下統一を助ける心強い味方だったのです。
ところが、長政はあるとき突然、義兄である織田信長を裏切ったのです。
そして信長をあと一歩のところまでおいつめたものの、壮絶な反撃を受けて敗北。
こうして長政は、29歳という若さで、命を落とすのでした。
浅井長政のプロフィール
戦国武将・浅井長政のプロフィールは、以下のとおりです。

《浅井長政》
「引用元ウィキペディアより」
【名前】浅井長政
【生年月日】1545年8月28日(旧暦・天文14年)
【死没年月日】1573年9月26日(旧暦・天正元年9月1日)享年29歳
【父】浅井久政
【妻】お市の方(織田信長の妹)
【子】万福丸・万寿丸・茶々・初・江
北近江(滋賀県北部)を支配した戦国大名。信長の妹を妻として同盟を締結したが、信長を裏切り追いつめた。
浅井長政の生涯と最期
【結論】長政は豊かな北近江を支配する大名で、織田信長の妹を妻としたが、信長を裏切って滅ぼされた。
生い立ち
浅井長政は、1545年、北近江(滋賀県北部)の戦国大名・浅井久政の息子として誕生しました。
浅井家は、室町幕府の名門である京極家の部下だった一族でした。
ところが、主人だった京極家は没落。
下剋上によって浅井家が京極家を上回る勢力を誇っていました。
しかし、南近江を支配していた戦国大名・六角氏に、浅井家は敗北し、従うようになります。
野良田の戦いでの活躍
1560年、浅井長政は16歳で、野良田の戦いに出陣し、2倍の数を誇る敵を討ち果たしたといいます。
浅井家はこのとき六角氏の部下となっていましたが、独立を模索していました。
1560年、浅井長政はついに独立を宣言し、六角氏と戦うことになります。
野良田の戦いです。
このとき、六角氏の軍は25000人。対する浅井軍は、半分以下の11000人でした。
ところが、以前から戦いの準備を整えていた浅井軍は、六角軍に勝利。
長政はわずか16歳で奇跡の勝利を飾り、その名を轟かせることになるのです。
織田信長と同盟!お市の方と結婚
長政は織田信長の妹・お市の方を妻として迎え入れ、織田家と同盟を結ぶことになります。
長政とお市が結婚した時期については、諸説あり、はっきりしていませんが、1564年から1567年頃といわれています。
織田信長は本拠地である美濃国(岐阜県南部)の岐阜城から、京都へ進軍することを目指していました。
そのためには京都への通り道である北近江の支配者・浅井長政を味方する必要があったのです。
なぜなら、美濃から京都への道中の安全を確保する必要があったのです。
長政も、敵である南近江の支配者・六角氏を挟み撃ちにするため、織田信長と同盟する必要がありました。
1568年、織田信長は京都へ向けて進軍を開始。
長政と同盟した織田信長は、六角氏の居城であった観音寺城を攻略することに成功。
のちの室町幕府15代将軍・足利義昭をつれて、見事に京都へ進軍することに成功したのです。
織田信長を裏切り!金ヶ崎の退き口
1570年、浅井長政は突然、義兄である織田信長を裏切ります。そして裏切られた信長は、絶体絶命の危機に陥るのです。(金ヶ崎の退き口)
織田信長は、同盟者である徳川家康の軍団とともに、1570年、敵対していた越前国(福井県東部)の戦国大名・朝倉義景を攻撃します。

《朝倉義景》
「引用元ウィキペディアより」
このとき浅井長政が、突然織田信長をうらぎり、背後から攻撃を仕掛けたのでした。
前に朝倉義景軍、後ろに浅井長政軍と、織田信長は絶体絶命の袋のネズミとなったのです。
織田信長は、味方を置き去りにするほどの素早さで京都へと逃げ帰ります。
背後から凄まじい追撃をかけてきた朝倉軍を、木下秀吉(豊臣秀吉)・明智光秀・徳川家康が防ぎきり、なんとか命拾いしたのです。この時の戦いを、金ケ崎の退き口と呼びます。
姉川の戦い
金ヶ崎の退き口で織田信長を討ち取れなかった浅井長政は、数ヶ月後に行われた姉川の戦いでも、織田信長をあと一歩まで追いつめながら敗北してしまうのでした。
1570年、金ヶ崎の退き口を逃げ切った織田信長は、徳川家康の軍団とともに近江国の姉川という場所で、浅井・朝倉連合軍と対峙します。
この戦いで、浅井長政は織田信長をあと一歩のところまで追いつめたのですが、徳川家康軍の活躍により、敗北をしてしまうのでした。
その後、浅井長政は居城である小谷城へ撤退し、籠城。
信長の軍団に包囲された小谷城は、絶体絶命となるのでした。
ところが、そんな浅井長政に、強力な味方が現れます。戦国最強の猛将・武田信玄です。
武田信玄の死
姉川の戦いから2年後、窮地におちいった浅井長政でしたが、戦国最強と呼ばれた武田信玄が行動を開始します。長政は劣勢を巻き返そうとしますが、あと一歩のところで武田信玄が病死してしまうのです。
1572年、甲斐(山梨県)の戦国大名・武田信玄が、浅井長政や朝倉義景と連携して、織田信長を倒すために進軍を開始します。

《武田信玄》
「引用元ウィキペディアより」
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これに対して、信長の同盟者である徳川家康は、信玄の進軍を阻止しようと攻撃を試みますが、惨敗してしまいます。(三方ヶ原の戦い)
1573年、あと一歩のところまで織田信長を追いつめた武田信玄でしたが、病気により急死してしまいます。
武田信玄の死によって危機を脱した織田信長は、全力をあげて浅井長政が籠城する小谷城へ猛攻を仕掛けるのでした。
終焉!浅井長政の最期
1573年、浅井長政は居城・小谷城を織田信長によって攻撃され、自害することになります。享年29歳。
長政は織田信長の軍団によって小谷城を包囲されてしまいます。
信長は大軍団をひきいて、浅井長政の同盟者・朝倉義景を討ち取ることに成功し、越前国を支配下におきます。
味方だった朝倉義景を失った浅井長政は、小谷城に孤立し、絶体絶命の状態となります。
浅井長政は、妻であるお市の方と3人の娘たちを、織田信長のもとへと送り、自害。
浅井長政の頭蓋骨は、織田信長によって盃にされたとも、金箔または朱塗りにされ、宴会の席で披露されたといわれています。
→→→→→【浅井長政の頭蓋骨が盃にされたという逸話】についてくわしくはこちら
裏切りの理由とは?なぜ織田信長を裏切ったのか
浅井長政は、織田信長が対等な同盟者であるはずの自分を、まるで部下のように扱ったことに危機感を覚え、独立を守るために信長を裏切ったという説があります。
長政が信長を裏切った理由については、浅井家の長年の同盟者である朝倉義景を、信長がひとことの相談もなく攻撃したことが原因であるといわれてきました。
織田信長の朝倉義景の両方と同盟していた浅井長政は、両者が戦ったことにより板挟みとなり、朝倉義景を選んだというわけです。
ところが、この裏切りの理由については、はっきりとした裏付け・証拠が存在していません。
最近では長政の突然の裏切りについて、義兄・織田信長が、浅井長政を部下としてあつかうようになり、独立が脅かされることに危機感を抱いた浅井長政が、信長を裏切ったと考えられているようです。
実際に織田信長は、対等な同盟者であるはずだった徳川家康を、1582年の時点で部下にしてしまっています。

《徳川家康》
「引用元ウィキペディアより」
浅井長政も、おそらくそのまま信長との同盟を続けていたならば、部下にされてしまっていたでしょう。
浅井家は、六角家から独立するために、野良田の戦いを起こしたほど、独立心の強い勢力です。
信長は、人の使い方が荒い人でしたので、その態度に浅井長政は危機感を覚え、激怒したのでしょう。
また、金子拓さんの著書【織田信長〜不器用すぎた天下人〜】のなかで、裏切りの理由について、織田信長が浅井長政についてひどいあつかいをしたためだとおっしゃっておられます。
織田信長は、浅井長政のことをとても低く評価していたようです。同じ同盟者である徳川家康のことは国主としてあつかった信長ですが、浅井長政のことは国主ではなくて、あくまでも一地方の豪族としてしかあつかっていないのだとか。
それに不満を抱いていた浅井長政は、信長を裏切り、敵対したというのです。
浅井長政の子孫と遺産
【結論】浅井長政の子孫には、豊臣秀頼や徳川家光などがいる。現在の天皇陛下も、浅井長政の血を引いている
浅井長政は小谷城の戦いで自害しましたが、妻・お市の方とのあいだに生まれた3人の娘たちによって、子孫が後世まで続くことになります。

《お市の方》
『引用元ウィキペディアより』
- 長女・茶々
- 次女・初
- 三女・江
浅井三姉妹と呼ばれたこの3人は、後世に大きな影響を及ぼすことになります。
長女・茶々は、豊臣秀吉の側室となって淀殿と呼ばれ、豊臣秀頼を産みます。
次女・初は、戦国武将・京極高次に嫁ぎましたが、子宝には恵まれませんでした。
三女・江は、徳川家康の息子である二代将軍・徳川秀忠に嫁ぎ、三代将軍・徳川家光を産んでいます。
実は三女・江には、完子姫という娘がいました。
この完子姫が、現在の天皇陛下のご先祖様です。
ですので天皇陛下は、浅井長政とお市の方の子孫でもあるのです。
→→→→→【浅井長政の子孫と天皇陛下の関係】についてくわしくはこちら
浅井長政の死後に起こったこと!妻・お市の方はどうなった?
浅井長政の死から10年後、お市の方は再婚相手の柴田勝家とともに、北庄城という場所で、命を落とすことになります。
浅井長政の死の直後、長男・万福丸は、秀吉によって処刑されてしまいます。
しかしお市の方と、その3人の娘たちは、信長によって保護され、無事に生活をおくることになります。
ところが1582年、本能寺の変によって織田信長が明智光秀に討ち果たされ、事態は急変します。
保護者である兄・織田信長を失ったお市の方は、織田家の家臣団のなかで最高の地位にいた柴田勝家と再婚することになります。

《柴田勝家》
「引用元ウィキペディアより」
3人の娘とともに、柴田勝家の居城だった越前国の北庄城へ移り住みます。
ところが柴田勝家は、1583年、ライバルだった羽柴秀吉(豊臣秀吉)に、賤ヶ岳の戦いで敗北し、自害。
三姉妹は秀吉の手で保護されたものの、お市の方は柴田勝家とともに自害して亡くなってしまいます。
こうして、三姉妹の長女・茶々は秀吉の側室となって、その子・秀頼を産むことになるのです。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 浅井長政とは、織田信長をあと一歩のところまで追いつめた戦国武将
- 長政は、信長の妹であるお市の方を妻としたが、信長を裏切り追いつめた
- 長政の子孫には、豊臣秀頼や徳川家光がいる。現在の天皇陛下も子孫にあたる
以上となります。
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