今回のテーマは徳川家康です。
この記事では徳川家康と豊臣秀吉の関係について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。
これを読めば家康と秀吉の関係を、カンタンに理解できます。
家康と秀吉は義理の兄弟なのです。
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この記事を短く言うと
1,徳川家康と豊臣秀吉は、どういう関係なのか?
二人はともに織田信長の部下であり、同僚だったが、のちに家康は秀吉の妹を妻としているため、義理の兄弟という関係になった
2,家康と秀吉の戦い【小牧・長久手の戦い】は、家康の勝利ではなかったのか?
小牧・長久手の戦いは、たしかに家康の勝利だった。しかしその前後に行われていた外交戦は秀吉の圧勝だった。秀吉は家康に味方した勢力である長宗我部元親・雑賀衆・織田信雄・佐々成政を次々と降伏させている
3,秀吉が亡くなったあと、家康がとった非情な行動とは?
秀吉が死んだ後、家康は秀吉の息子・秀頼を【大坂・夏の陣】で戦死させて、豊臣家を滅亡させている。
徳川家康と豊臣秀吉の関係とは?二人は義理の兄弟だった
徳川家康と豊臣秀吉は、義理の兄弟という関係です。

《徳川家康》
「引用元ウィキペディアより」
徳川家康は、豊臣秀吉の妹・旭姫を妻としているのです

羽柴秀吉(豊臣秀吉)
「引用元ウィキペディアより」
二人はもともと、ともに織田信長につかえた部下でした。
徳川家康は当初、織田信長の部下ではなく、対等な関係でした。つまり対等な同盟者だったのです。
ところが、【1582年】頃の徳川家康は、織田信長の部下に成り下がっていました。
そのため、もともとは信長の部下と信長の同盟者という関係だった秀吉と家康は、のちに織田家につかえる同僚という関係へと変化していったのです。
【1582年6月】、本能寺の変で織田信長が明智光秀によって殺害されます。
この本能寺の変がきっかけとなり、秀吉と家康は、織田信長亡き後の天下を狙う【ライバル関係】になります。
【1584年】、家康と秀吉は、小牧・長久手の戦いで激突。
詳しくは後述いたしますが、この戦いは秀吉の圧勝に終わります。
【1586年】、秀吉は自分の妹・旭姫(朝日姫)を、家康の妻として嫁がせています。
そのあと家康は、秀吉への臣従つまり降伏することを決意。
大坂城へおもむいて秀吉に謁見することとなるのです。
この瞬間、家康は秀吉の部下となったのです。
まとめると、秀吉と家康の関係は、次のように移り変わっています。
- 織田信長の部下である豊臣秀吉と、織田信長の同盟者である徳川家康
- ともに織田信長に仕える同僚という関係
- 織田信長亡き後、天下を狙うライバル
- 秀吉の妹・旭姫と徳川家康が婚姻し、義理の兄弟へ
- 家康が秀吉に屈服し、主人と家来という関係へ
- 秀吉亡き後、家康は豊臣家を滅亡させる
一度は秀吉に屈服した家康。しかし秀吉亡き後、家康はその子・豊臣秀頼を死なせて、豊臣家を滅亡させているのです。
→→→→→【信長・秀吉・家康の関係】についてくわしくはこちら
小牧・長久手の戦いは、家康の勝利ではなく、秀吉の圧勝だった
【1584年】に勃発した小牧・長久手の戦い。一般的にこの戦いは、徳川家康の勝利といわれています。
しかし実際には、この戦いは秀吉の圧勝でした。なぜなら家康の味方だった勢力が、ことごとく秀吉に倒され、降伏しているからです。
小牧・長久手の戦いでは、秀吉の甥・豊臣秀次がひきいた軍が、徳川家康の攻撃によって壊滅しています。
そのとき、秀吉に味方していた池田恒興と森長可という、二人の武将が戦死させられています。
(池田恒興は織田信長を育てた乳母の息子であり兄弟同然に育った関係。森長可は信長につかえた森蘭丸の兄)
しかし実は小牧・長久手の戦い、ほとんど家康の敗北であり、秀吉が圧勝した戦いなのです。
小牧・長久手の戦いは、【1584年】に秀吉と家康のあいだで講和が成立し終戦しています。
(このとき、家康は講和条件として、次男の於義丸(のちの結城秀康)を、秀吉の元へ人質として送っている)
このあとが問題なのです。
実は小牧・長久手の戦いが終わったとき、家康は以下の勢力と同盟を結んでいました。
- 尾張・伊勢の織田信雄
- 四国の長宗我部元親
- 紀伊国の鉄砲傭兵集団・雑賀衆
- 関東の北条氏政
- 越中の佐々成政
- 奥州の伊達政宗
これらの勢力と同盟を協力することで、家康は【秀吉包囲網】をつくりあげていました。
ところが外交が得意だった秀吉は、これら秀吉包囲網を【1585年】のうちに、外交戦術で次々と打ち破っていきます。
- 秀吉は紀州征伐をおこない、紀伊国・雑賀衆を屈服。
- 四国・長宗我部元親が秀吉の四国征伐で屈服。
- 織田信雄が秀吉の脅しにより屈服。
- 越中の佐々成政が富山の役により、ほとんど戦うこともなく秀吉に屈服。(このころ家康は第一次上田合戦で真田昌幸に大敗している)
- 秀吉は妹・旭姫を家康のもとへ送り込み、婚姻関係を締結。
秀吉は、北条氏政と伊達政宗を除いて、家康に味方する勢力すべてを、わずか1年以内に降伏させているのです。
こうして秀吉包囲網は崩壊してしまいます。これにより、家康はすべての味方を失ったわけです。
この包囲網崩壊と、秀吉が家康のもとへ実母・大政所を人質として送ったことをきっかけに、家康は大坂城へおもむき、秀吉に降伏することとなるのです。
話しをまとめましょう。
小牧・長久手の戦いという小さな戦いでは、たしかに家康は勝利しました。
しかし家康の味方だった以下の4つの勢力
- 長宗我部元親
- 雑賀衆
- 織田信雄
- 佐々成政
これら4つの勢力は、次々と秀吉に屈服していたのです。
小牧・長久手の戦いは、日本全国でみてみると、秀吉の圧勝におわっていることがわかります。
【1590年】、小田原征伐により、残った北条氏政と伊達政宗も秀吉に屈服。
天下は豊臣秀吉によって、統一されることとなるのです。
→→→→→【秀吉の天下統一までの経緯】についてくわしくはこちら
豊臣秀吉が亡くなった後、徳川家康がとった非情な行動とは?
徳川家康は、【1598年】に秀吉が亡くなるまで、秀吉の義理の弟として、とても従順で義理堅い部下として振る舞い続けます。
(秀吉の妹・旭姫は、病気により【1590年】に亡くなっている)
ところが秀吉が亡くなると、家康は突如として牙をむきはじめるのです。そして秀吉が誰よりも大事にしていた息子・豊臣秀頼を死に追いやるのです。
それまでの従順だった家康は人が変わったかのように、突如として豊臣家を崩壊させかねない行動を繰り返すようになります。
主君・豊臣秀頼をないがしろにし、まるで自分こそが天下人であるかのような振る舞いを始めた家康。
そんな家康に怒ったのが、豊臣家を守ろうとする忠臣・石田三成でした。

《石田三成》
「引用元ウィキペディアより」
家康と石田三成は、【1600年】に関ヶ原の戦いで激突。
関ヶ原の戦いで勝利した家康は、石田三成を処刑し、豊臣家の力を削ぎ落とし続けます。
【1615年】、家康はついに大坂夏の陣で秀吉の息子・豊臣秀頼を戦死させ、豊臣家を滅亡に追い込みます。
このとき家康は、秀吉を神としてまつっていた豊国神社を打ち壊し、豊臣家の遺構を完全に消し去っています。
小牧・長久手の戦いとその後の外交戦で大敗した家康は、秀吉の死後、その復讐を果たすかのように、豊臣家を完全に滅ぼしたのでした。
秀吉は亡くなる直前に
【息子・秀頼のことを、くれぐれもよろしくお願いいたします】
と、家康に言い残していました。
家康はこの秀吉の遺言を無視して、最期には秀吉が何より大切にした息子・秀頼を死にいたらしめるという、非情な行動をとっているのです。
家康の非情な行動のおかげか、大坂夏の陣の後の日本は、【1868年】の明治維新まで【253年】もの長いあいだ、平和で穏やかな時をおくることとなるのです。
秀頼のご遺体は、母・淀殿とともに、今も大阪城の地下で眠っているといわれています。
→→→→→【発見された豊臣秀頼の遺体】についてくわしくはこちら
まとめ
本日の記事をまとめますと
1,徳川家康と豊臣秀吉は、ともに織田信長の部下であり、同僚だったが、のちに家康は秀吉の妹を妻としているため、義理の兄弟という関係になった
2,小牧・長久手の戦いは家康の勝利だが、その前後に行われていた外交戦は秀吉の圧勝だった。秀吉は家康に味方した勢力である長宗我部元親・雑賀衆・織田信雄・佐々成政を次々と降伏させている
3,秀吉が死んだ後、家康は秀吉の息子・秀頼を大坂夏の陣で戦死させて、豊臣家を滅亡させている。
以上となります。
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