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徳川家康と石田三成が関ヶ原の戦いを起こした理由!なぜ二人は戦った?

今回のテーマは徳川家康とくがわいえやすです。

 

この記事では、徳川家康と石田三成いしだみつなり関ヶ原せきがはらの戦いで戦った理由について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。

 

これを読めば、家康と三成が争った理由を、カンタンに理解できます。

 

家康は豊臣家を乗っ取ろうとしたため、豊臣家を守ろうとした石田三成と戦うこととなったのです。


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どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

 

1,徳川家康と石田三成が、関ヶ原の戦いで争った理由は何?

徳川家康は天下の支配者の地位を奪い取ろうとし、石田三成はそれを阻止しようとした。関ヶ原の戦いで激突した。豊臣家とよとみけを乗っ取ろうとする家康と、豊臣家を守ろうとする三成の間で、関ヶ原の戦いは勃発した。

 

2,徳川家康と石田三成は、どのような目的で戦ったのか?

徳川家康は豊臣家から天下の支配者の地位を奪い取ろうとし、石田三成は豊臣家がもっていた天下の支配者という地位を守ろうとした。

 

3,関ヶ原の戦いが、実は存在しなかったという説とは、どのような説なのか?

【1600年】に起こったとされる関ヶ原の戦いは、後世の創作であり、実際には山中やまなかという地で、小規模な戦闘が行われただけ、という説がある。

目次

 徳川家康と石田三成が【関ヶ原の戦い】で戦った理由とは?

【1600年】に起こった関ヶ原の戦いで、徳川家康と石田三成が戦った理由は、豊臣家を乗っ取ろうとする徳川家康を、石田三成が阻止しようとしたためです。

《徳川家康》
「引用元ウィキペディアより」

【1598年】、天下を支配していた天下人・豊臣秀吉とよとみひでよしが死去します。

 

秀吉の家来けらいだった徳川家康と石田三成は、それぞれに

  • 豊臣家を乗っ取ろうとする一派(家康派・東軍とうぐん
  • 豊臣家を守ろうとする一派(三成派・西軍せいぐん

をひきいて争ったのです。

 

秀吉の死から2年後の【1600年】、関ヶ原の戦いで激突した両者でしたが、徳川家康が勝利します。

 

この関ヶ原の戦いをきっかけにして、天下を支配していた豊臣家は徐々に没落していきます。

 

15年後の【1615年】、大坂・夏の陣で徳川家康に攻められた豊臣家は、ついに滅亡したのです

 

→→→→→【徳川家康は何した人か簡単解説】についてくわしくはこちら


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徳川家康と石田三成は、それぞれどんな目的があって、戦うこととなったのか?

徳川家康は秀吉が死んだ後の天下を狙っていました。

 

対して石田三成は、秀吉が死んだ後の天下は、秀吉の息子である豊臣秀頼とよとみひでよりが継承するのが当然であると考えていたのです。

《石田三成》
「引用元ウィキペディアより」

天下を支配している勢力・豊臣家を乗っ取ろうとたくらんだ徳川家康は、一つの作戦をたてました。

 

それは

豊臣家を2つに分裂させて争わせ、片方を滅ぼすことによって、豊臣家の力を半減させる

というものです

 

実はこの家康が考えた豊臣家・分裂計画は、豊臣秀吉が全く同じことを過去におこなっていたのです。

 

清須会議きよすかいぎ賤ヶ岳しずがたけの戦いをご存知でしょうか?

 

豊臣秀吉は、【1582年】に本能寺ほんのうじの変で織田信長おだのぶながが亡くなると、織田家の乗っ取りをたくらんだのです。

《織田信長》
クリックすると拡大できます
「引用元ウィキペディアより」

そこで秀吉は、【1582年】に清須会議という、織田家の後継者を決める会議で、たくみに織田家を分裂させたのです。

 

  • 秀吉ひきいる織田家を乗っ取ろうとする一派(秀吉派)
  • 柴田勝家しばたかついえひきいる織田家を守ろうとする一派(勝家派)

 

この2つに分裂した織田家は、【1583年】、賤ヶ岳の戦いで激突します。

 

結果は、秀吉の勝利に終わります。

 

これにより織田家という天下一の軍団は、秀吉にほぼ乗っ取られることとなったのです。


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話を戻しましょう。

 

秀吉が清須会議と賤ヶ岳の戦いでおこなった分裂工作を、家康は関ヶ原の戦いでそっくりそのままマネしたのです。

 

徳川家康は秀吉が亡くなったあと、まるで自分が天下人であるかのような、傍若無人ぼうじゃくぶじんな振る舞いを続けます。

 

つまり、秀吉が生前につくったルールや決まりを勝手に破り、次から次へと豊臣家という組織を破壊していったのです。

 

これに怒ったのが、豊臣家の有能な部下であった石田三成です。

 

豊臣家という組織を守り、豊臣秀頼という秀吉の幼い後継者を守ろうとする三成は、仲間を集めて家康に対抗しようとします。

豊臣秀頼 京都市養源院蔵:Wikipediaよりパブリックドメイン

しかし、これこそが家康が狙っていた豊臣家・分裂工作の罠でした。

 

家康は、石田三成という旗頭はたがしらをいただいた豊臣家を守ろうとする一派(西軍)を、自らがひきいる豊臣家を乗っ取ろうとする一派(東軍)で倒してしまったのです。

 

この戦いが関ヶ原の戦いです。


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関ヶ原の戦いによって、豊臣家を守ろうとする一派は、石田三成をはじめとして、ことごとく滅びてしまいました。

 

関ヶ原の戦いで家康に敵対する勢力が滅びたために、家康の天下を阻止できるものは、全くいなくなってしまったのです。

 

家康は関ヶ原の戦いのあと、すぐに豊臣秀頼を滅ぼそうとはしませんでした。

 

秀頼が自分の家来として従うなら、豊臣家を存続させてもいいと考えていたのでしょう。

 

しかし豊臣秀頼は、あくまでも家康に臣従することを拒み続け、ついには戦うこととなってしまいます。

 

【1615年】に勃発した大坂・夏の陣で、真田信繁さなだのぶしげ(真田幸村ゆきむら)たちの奮闘も虚しく、豊臣家は滅亡してしまうのです

 

→→→→→【石田三成の最期】についてくわしくはこちら

→→→→→【石田三成の旗印・大一大万大吉だいいちだいまんだいきちの意味】についてくわしくはこちら

→→→→→【真田幸村の最期】についてくわしくはこちら


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新説!関ヶ原の戦いは無かった?

関ヶ原の戦いは、実際には起こっていなかった、という説があります。

 

【1600年】、天下分け目とよばれた、日本を二分する日本史上でも屈指の大戦・関ヶ原の戦い

《関ヶ原の戦い》
「引用元ウィキペディアより」

研究が重ねられた結果、関ヶ原の戦いは、実際には行われておらず、現在の岐阜県・関ヶ原の西にある山中やまなかという地で、小さな戦いが勃発しただけ、という説があるのです。

 

この説が本当であるとするならば、なぜ関ヶ原の戦いという有名な戦いが、まるで実際に行われたかのように、現代まで言い伝えられているのでしょうか?

 

それは、関ヶ原の戦いに参加した者たちの子孫が、先祖の活躍を派手に自慢しあい、いつのまにか大戦争という様子になってしまった、と考えられているのです。

 

関ヶ原の戦い

 

史実上、関ヶ原という場所で、天下分け目の大合戦など行われていないとするならば、家康は大規模な戦いを行うまでもなく、天下を手に入れたということになるのです。

 

→→→→→【関ヶ原の戦いを簡単解説】についてくわしくはこちら


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徳川家康と石田三成の関係とは?二人は仲が良かった

徳川家康と石田三成、二人は仲が悪かったといわれています。

 

しかし関ヶ原の戦いが行われていなかったともいわれている昨今、両者の関係は決して悪くなかったという説が浮上しています。

 

実は石田三成の子どもたちは、家康によって、その全員が命を助けられているのです。

 

石田三成は、事実上西軍の総大将でした。(表向きの西軍総大将は毛利輝元もうりてるもとだった)

 

敗北した総大将は、当然処刑です。

 

それだけではなく、総大将の一族も、一緒に処刑されるのが習わしです。

 

たとえば大坂夏の陣で亡くなった豊臣秀頼の息子・国松丸くにまつまるは、幼い子供でありながらも処刑されています。

 

ところが石田三成の子どもたち3男3女は、全員が出家したり、津軽へ落ち延びたりして、現代に子孫を残しているのです。


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一説によると、石田三成の息子・石田重家いしだしげいえの『家』の一文字は、徳川家康の『家』の一文字をもらったものだともいわれています。(諸説あるが、石田重家いしだしげいえは大坂城で生活していた際に、徳川家康から非常に可愛がられたという)

 

石田三成と徳川家康は、仲が悪かったというのが、関ヶ原の戦いにおける通説、つまり常識でした。

 

しかし、三成と家康の仲が良好だったとするならば、三成の子が命を救われていることも説明がつきます。

 

徳川家康と石田三成は、本当は仲が良かった可能性が高いと思います。

 

関ヶ原の戦いは、もしかすると、本当に起こっていなかったのかもしれません。

 

→→→→→【豊臣秀頼の最期】についてくわしくはこちら


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まとめ

本日の記事をまとめますと

1,徳川家康と石田三成が、関ヶ原の戦いで争った理由は何かというと、家康が天下の支配者の地位を奪い取ろうとし、石田三成がそれを阻止しようとしたため

 

2,徳川家康は豊臣家から天下の支配者の地位を奪い取ろうとし、石田三成は豊臣家が持っていた【天下の支配者】という地位を守ろうとした。

 

3,【1600年】に起こったとされる関ヶ原の戦いは、後世の創作であり、実際には山中という地で、小規模な戦闘が行われただけ、という説がある。

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。

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