今回のテーマは徳川家康です。
この記事では徳川家康と明智光秀の関係について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。
これを読めば家康と光秀を、カンタンに理解できます。
家康と光秀は、織田家の同僚という関係なのです。
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この記事を短く言うと
1,徳川家康と明智光秀は、どういう関係なのか?
徳川家康と明智光秀は、ともに織田信長のもとで天下統一を目指して戦った同僚という関係だった
2,明智光秀の生存説とは?
本能寺の変の直後に、羽柴秀吉との山崎の戦いで戦死したはずの明智光秀は、南光坊天海と名を変えて、徳川家康の参謀として生き延びたという説がある。
3,徳川家康と明智光秀が豊臣家に復讐したとは、どういうことなのか?
徳川家康と明智光秀こと南光坊天海は、【1615年】に大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼしている。それは徳川家康からすれば、織田家を乗っ取った秀吉への復讐であり、明智光秀からすれば山崎の戦いで一族を討たれた復讐を果たしたことになる。
徳川家康と明智光秀の関係とは?二人は同僚だった
徳川家康と明智光秀は、織田信長のもとで、ともに天下統一のために戦った同僚です。

《徳川家康》
「引用元ウィキペディアより」
徳川家康は桶狭間の戦いで今川義元が亡くなった後の【1562年】に結ばれた清洲同盟で、織田信長と対等な同盟を結んだ間柄でしたが、のちに織田信長の部下となっています。
光秀と家康が、とくに親しかったわけではありません。
ただ、二人は本能寺の変で織田信長が討たれる直前に、接点があるのです。
【1582年】、本能寺の変が起こる直前、徳川家康は安土城に住んでいた織田信長のもとを訪れ、接待を受けています。
その接待の責任者が明智光秀だったのです。
光秀はこの徳川家康の接待役を、織田信長の命令によって突然解任されています。
その直後、本能寺の変で織田信長を討ち果たした明智光秀は、京都の近くにある堺の町を観光していた徳川家康を襲撃。
襲撃された家康は、伊賀越えと呼ばれる逃亡ルートを利用して、本国の三河国へと帰還。
無事に三河国へ逃げ延びた家康は、軍団を整え、織田信長の仇である光秀を討つために、三河から京都へ向けて進軍。
しかし、家康より先に羽柴秀吉が、山崎の戦いで明智光秀を撃破してしまったため、やむなく三河へ撤退。
つまり家康は明智光秀に殺されかけていた、というわけです。
→→→→→【徳川家康は何した人なのか】についてくわしくはこちら
明智光秀・生存説と、南光坊天海との同一人物説や逸話
明智光秀には、不思議な生存説があります。

本徳寺所蔵の明智光秀肖像:Wikipediaよりパブリックドメイン
【1582年】、本能寺の変の11日後に、明智光秀は山崎の戦いで戦死しています。
そんな明智光秀が、南光坊天海と名を変えて、生き延びたという逸話があるのです。

《南光坊天海》
「引用元ウィキペディアより」
南光坊天海とは、徳川家康につかえたブレーン、つまり参謀です。
南光坊天海は、三代将軍・徳川家光の代まで仕えた人物。
徳川家光は南光坊天海をとても尊敬していたといわれています。
とはいえ、南光坊天海が明智光秀と同一人物であるという説は、あくまでも噂レベルのものです。
詳しくは後述しますが、最近おこなわれた筆跡鑑定によると、明智光秀と南光坊天海は別人である可能性が高いといわれていました。
もし万が一、両者が同一人物であるならば、二人は協力して豊臣秀吉がつくりあげた豊臣家へ復讐したとみることができるのです。
徳川家康と明智光秀は、豊臣家に復讐した?
【1598年】、天下人(天下を支配していた人物)だった豊臣秀吉が死去します。

《豊臣秀吉》
「引用元ウィキペディアより」
【1615年】、大坂夏の陣によって、秀吉の息子・豊臣秀頼が自害し、豊臣家が滅亡。
豊臣家は秀吉が亡くなった【17年後】に、滅ぼされたのです。
豊臣家を滅亡に追い込んだのは、徳川家康と、その参謀・南光坊天海でした。
見方によれば、この大坂夏の陣による豊臣家滅亡は、徳川家康と南光坊天海による、豊臣家への復讐とみることもできるわけです。
南光坊天海が明智光秀であるとするならば、山崎の戦いで敗北し、一族を次々と死に追い込まれた復讐を果たした形になります。
また徳川家康からすれば、盟友・織田信長がつくりあげた織田家を乗っ取り、没落させた豊臣秀吉への復讐という見方もできるのではないでしょうか。
とはいえ、徳川家康が織田家の復讐をしたというのなら、織田信長を討った明智光秀こそが、家康からすれば最も復讐しなくてはいけない相手であることが、少し気になりますが・・・。
明智光秀は、本能寺で徳川家康を討つはずだった?
明智光秀の末裔で、作家の明智憲三郎さんが、一つの著書を世に送り出しました。
本能寺の変~431年目の真実~
これによると、本能寺の変のとき、明智光秀は徳川家康を討つはずだった、とのことです。
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明智光秀は織田信長の命令によって、本能寺へおびき出された徳川家康に、織田信長を襲撃したという濡れ衣を着せて暗殺する予定だったというのです。
当時、徳川家康は織田信長にとって、将来の禍根となりかねない勢力に成長しつつありました。
織田信長は、そんな徳川家康という禍根を断つために、一芝居うったわけです。
本能寺の変が起こった際、織田信長はわずか100名程度の護衛のみで、本能寺に滞在していました。
このとき徳川家康はというと、少数の護衛だけをひきいて、堺の町から機内を観光旅行中でした。
信長が少数の軍のみを率いていた理由は、徳川家康から襲撃されたという言いがかりを家康になすりつけるため。
もしも信長が大軍団を率いていたら、家康が信長を襲撃するはずがありませんので、家康に襲撃されたという言いがかりは通らなくなります。
明智憲三郎さんによれば、信長は家康を本能寺へと招き、そこを明智光秀の軍に襲撃させて、家康を倒す予定だったのだとか。
長年の同盟者であった徳川家康を討ち果たした言い訳を、信長は事前に用意していたというのです。
その言い訳とは【家康に暗殺されそうになったから、返り討ちにした】というもの。
ところが、明智光秀と徳川家康は、協力して信長の策略を逆手にとります。
少数の軍団で本能寺に滞在していた織田信長を、明智光秀の軍団が急襲したのです。
「余は自ら死を招いたな」
明智憲三郎さんによれば、これが織田信長が最期に口にした言葉だったといわれています。
信長は自らが張り巡らせた策略によって、かえって自らの死を招いてしまったのです。
とはいえこの説も、あくまでも数多くある本能寺の変の一説に過ぎないのかもしれません。
この明智憲三郎さんの説は、とてもおもしろい説であると、筆者は思っています。
しかし歴史家・呉座勇一さんは、自らの著書【陰謀の日本中世史】で、明智憲三郎さんの説を批判しておられます。
呉座勇一さんが言うには、明智光秀が徳川家康と協力して織田信長を討ち果たしたという説は、可能性が低いとのことです。
明智光秀と南光坊天海の筆跡鑑定
明智光秀と南光坊天海が同一人物なのかどうかを調査するため、とあるテレビ番組で、二人の筆跡鑑定が行われたことがありました。
数年前の筆跡鑑定では【両者は同一人物、または近親者である可能性が高い】という結果がでていました。
しかし【2020年5月11日】に放送されたフジテレビ系【所japan】という番組では、まったく別の結果が出たのです。
この【所japan】という番組で、東京大学による南光坊天海と明智光秀の筆跡鑑定が行われました。すると
「天海と明智光秀は、まったくの別人である」
という結果が出たのです。
そもそも一度目の筆跡鑑定で出された同一人物か近親者という結果ですが、考えてみるとおかしな話です。
筆跡から近親者なんてことがわかるものなのかどうか・・・。
読み書きを教えられた師弟や親子ならば、筆跡が似ることもあるのでしょうけれども、やはりおかしいな結果だと思います。
→→→→→【光秀の娘婿・明智秀満が南光坊天海になった説】についてくわしくはこちら
まとめ
本日の記事をまとめますと
1,徳川家康と明智光秀は、ともに織田信長のもとで天下統一を目指して戦った同僚という関係だった
2,本能寺の変の直後に、羽柴秀吉との山崎の戦いで戦死したはずの明智光秀は、南光坊天海と名を変えて、徳川家康の参謀として生き延びたという説がある。
3,徳川家康と明智光秀こと南光坊天海は、【1615年】に大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼしている。それは徳川家康からすれば、織田家を乗っ取った秀吉への復讐であり、明智光秀からすれば、山崎の戦いで一族を討たれた復讐を果たしたことになる。
以上となります。
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