今回のテーマは「豊臣秀吉」です。
この記事では「豊臣秀吉につかえた二人の軍師」について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。
これを読めば「秀吉の軍師」を、カンタンに理解できます。
「豊臣秀吉」には「竹中半兵衛」と「黒田官兵衛」、通称「両兵衛」と呼ばれる天才軍師がついていたのです。
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この記事を短く言うと
1,「竹中半兵衛」とは何者か?
「竹中半兵衛重治」とは、元々は「美濃・斎藤家」につかえていた武将。「斎藤龍興」と敵対し、「織田信長」に臣従。「羽柴秀吉」の与力として、その軍師・参謀を務めた。
2,「黒田官兵衛」とは何者か?
「黒田官兵衛孝高」とは、播磨国の「小寺家」につかえていた小豪族。「織田信長」の将来性を見抜き、接近。中国方面軍司令官の「羽柴秀吉」につかえ、「竹中半兵衛」の後任者として、秀吉の天下統一を助けた
3,「竹中半兵衛」と「黒田官兵衛」の関係とは?
「竹中半兵衛」と「黒田官兵衛」は、ともに秀吉の軍師であり、前任者と後任者の関係。「竹中半兵衛」は「黒田官兵衛」の息子「松寿丸(のちの黒田長政)」の命を救い、病死した。
目次
天才軍師「竹中半兵衛重治」とは何者なのか?
「竹中半兵衛重治(たけなか はんべえ しげはる)」とは、天下人「豊臣秀吉」につかえた天才軍師・参謀です。

羽柴秀吉(豊臣秀吉)
「引用元ウィキペディアより」
もともと「竹中半兵衛」は、
- 「斎藤道三」
- 「斎藤義龍」
- 「斎藤龍興」
と、美濃斎藤家に三代にわたって仕えた美濃国の豪族で、「菩提山城」の城主でした。

《竹中半兵衛重治》
「引用元ウィキペディアより」
もともとは「織田信長」と敵対していた「竹中半兵衛」でしたが、主君「斎藤龍興」が暗君・バカ殿であったため、「龍興」と敵対することとなります。
「竹中半兵衛」は、その天才的な智謀を駆使して、難攻不落とよばれた龍興の居城「稲葉山城(岐阜城)」を、わずか十数名で陥落させたのです。
その後「半兵衛」は、舅にあたる「西美濃三人衆」のひとり「安藤守就」とともに、「織田信長」に仕えます。
「織田信長に仕えるつもりはないが、木下秀吉には喜んで仕える」
そういって、秀吉の参謀となった逸話・エピソードは有名です。
しかしこれは後世の創作である可能性が高いのだとか。
実際のところ「竹中半兵衛」は、「織田信長」の直臣であり、「秀吉」へ「与力(よりき・応援部隊)」として付けられただけと考えられています。
「斎藤道三」については、以下のリンク記事をどうぞ。
「斎藤道三の全てを徹底解説!年表やエピソードから子孫まで完全網羅」の記事はコチラ
「斎藤義龍」については、以下のリンク記事をどうぞ。
もう1人の「兵衛(ひょうえ)」!「黒田官兵衛孝高」とは何者か?
「黒田官兵衛孝高(くろだ かんべえ よしたか)」は、播磨国の豪族であり、「姫路城」の城主でした。

《黒田官兵衛孝高》
「引用元ウィキペディアより」
もともと「黒田官兵衛」は、播磨国の豪族「小寺政職(こでら まさもと)」につかえていた小さな豪族でした。
【1575年】、「黒田官兵衛」は、「長篠の戦い」で「武田勝頼」を討ち果たしていた「織田信長」の能力を見抜きます。
そして、織田軍団の中国方面軍司令官だった「羽柴秀吉」に接近。
秀吉に自らの居城「姫路城」を提供して、中国地方攻略を手助けすることとなるのです。
「へし切長谷部」
【1575年】、「黒田官兵衛孝高」は「織田信長」から、その才能を認められ、信長が茶坊主を棚ごと「へし切った」とされる名刀「へし切長谷部」を、信長の手から直接与えられたといわれています。
秀吉の「中国地方」の攻略を「竹中半兵衛」とともに助けることとなった「黒田官兵衛孝高」ですが、【1578年】、官兵衛は危機に陥ります。
織田家を裏切った摂津国の武将「荒木村重」を説得しようと、「荒木村重」の居城「有岡城」へ乗り込んだ「黒田官兵衛」は、捕らえられて有岡城の牢獄へ幽閉されたのです。
「有岡城」からいつまでたっても帰ってこない「黒田官兵衛」を、「織田信長」は疑い始めます。
「官兵衛」は旧知の仲である「荒木村重」とともに「有岡城」にたてこもり、織田家を裏切ったのではないか?
「黒田官兵衛」は臣従の証として、息子「松寿丸(のちの黒田長政)」を、織田家へ人質として送り込んでいました。
そのため「織田信長」は、裏切り者「黒田官兵衛」の息子「黒田長政」を、見せしめとして処刑しようとします。
この危機を救ったのが、重病で瀕死の状態におちいっていた「竹中半兵衛」でした。
「織田信長」については、以下のリンク記事をどうぞ。
「竹中半兵衛」と「黒田官兵衛」は、どういう関係か?
「竹中半兵衛」と「黒田官兵衛」は、ともに秀吉に仕えた軍師であり、「竹中半兵衛」が前任者、「黒田官兵衛」はその後任者でした。
そして「竹中半兵衛」は、「黒田官兵衛」にとっては恩人にあたります。

《官兵衛が半兵衛から譲り受けたとされる「黒餅(石持)紋」》
「引用元ウィキペディアより」
「有岡城」に幽閉され、裏切りを疑われた「黒田官兵衛」は、息子「黒田長政」を処刑されそうになります。
自らの死が近いことを悟っていた「竹中半兵衛」は、自らの後任の軍師として「黒田官兵衛」を推薦しようと考えていたのです。
そのため、官兵衛の子「黒田長政」を自らの部下のもとへ匿います。
「黒田長政」を処刑するように命令してきた「織田信長」に対して、半兵衛は「ニセの首」を見せてごまかしたのでした。
【天正7年(1579年)6月】、「竹中半兵衛」は播磨国三木城の攻略中に病死。享年36歳。
この4ヶ月後の【天正7年10月】、「有岡城」は陥落し、「黒田官兵衛」は救出されます。
我が子「黒田長政」は処刑されたものと思い込んでいた「官兵衛」でしたが、「半兵衛」によって救われていたことに感激。
感謝の気持ちを込めて、官兵衛は「竹中家」の家紋を譲り受けたといわれています。
「竹中半兵衛」に息子を救われた「黒田官兵衛」。
しかしその「竹中半兵衛」は、「官兵衛」が有岡城に幽閉されている間に病死していました。
この後、黒田官兵衛は「竹中半兵衛」の後任者として、見事に「軍師」としての職務をまっとうします。
【1582年】、「本能寺の変」で「織田信長」が「明智光秀」に討たれると、「官兵衛」は「中国大返し」とよばれる超高速移動を実現させます。
そして「山崎の戦い」で「明智光秀」を撃破。
「清須会議」で「秀吉」を「織田信長」の事実上の後継者に押し上げ、「豊臣秀吉」による天下統一を、強力に後押ししたのでした。
【1604年】、黒田官兵衛は「京都・伏見屋敷」で死去。享年59歳。
「次の天下人は、徳川家康でも前田利家でもない。黒田官兵衛だ」
「豊臣秀吉」は、そんな言葉を残したという逸話が残っています。
「豊臣秀吉」からもっとも恐れられた天才軍師「黒田官兵衛」は、天下を狙いながらも運を味方に付けられず、静かに世を去ったのです。
「本能寺の変」については、以下のリンク記事をどうぞ。
「織田信長【本能寺の変】の謎と最新説を考察!信長を殺した黒幕は誰?」の記事はコチラ
「明智光秀」については、以下のリンク記事をどうぞ。
まとめ
本日の記事をまとめますと
1,「竹中半兵衛重治」とは、元々は「美濃・斎藤家」につかえていた武将。「斎藤龍興」と敵対し、「織田信長」に臣従。「羽柴秀吉」の与力として、その軍師・参謀を務めた。
2,「黒田官兵衛孝高」とは、播磨国の「小寺家」につかえていた小豪族。「織田信長」の将来性を見抜き、接近。中国方面軍司令官の「羽柴秀吉」につかえ、「竹中半兵衛」の後任者として、秀吉の天下統一を助けた。
3,「竹中半兵衛」と「黒田官兵衛」は、ともに秀吉の軍師であり、前任者と後任者の関係。「竹中半兵衛」は「黒田官兵衛」の息子「松寿丸(のちの黒田長政)」の命を救い、病死。「官兵衛」はそれに感謝し、「半兵衛」の後任者として秀吉を支え続けた。
以上となります。
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