この記事では「斎藤義龍がつかっていた家紋」について、「画像つき」で、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。
これを読めば「斎藤義龍の家紋」を、カンタンに理解できます。
「斎藤義龍の家紋」は「五三桐紋」です。
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この記事を短く言うと
1,「斎藤義龍(高政)」がつかった家紋とは?
斎藤義龍は、「五三桐紋」という家紋を使用していた。もともと斎藤家は「撫子紋」をつかっていた。
2,「斎藤道三」がつかっていた家紋とは?
義龍の父「斎藤道三」は、「二頭波紋」という、自分で考えてデザインしたオリジナルの家紋を使用していた。息子「義龍(高政)」は、この「二頭波紋」を使っていない
3,「義龍(高政)」は、「足利家」と同じ家紋を使っていたのか?
義龍は、足利将軍家の分家である「一色家」を名乗り、将軍「足利義輝」からも、「一色」を名乗ることを認められていた。ハッキリとはわからないが、「足利将軍家」と「一色家」の家紋である「二つ引両」についても、使用が許されていた可能性がある。
目次
斎藤義龍(高政)が使っていた「家紋」を画像付きでご紹介
斎藤義龍(高政)は、「五三桐紋」という家紋を使用していました。

《五三桐》
「引用元ウィキペディアより」
「桐紋」は「日本十大家紋」の1つです。
「皇室」や「日本政府」も、「桐紋」を使用しています。
現在でも数多くの家で、この「桐紋」が使用されています。

《斎藤義龍》
「引用元ウィキペディアより」
斎藤義龍(高政)は、美濃国の守護代「斎藤家」の家系です。
美濃国の斎藤家は、「藤原北家」の家系で、もともと「撫子紋」を使っていました。

《撫子紋・なでしこもん》
「引用元ウィキペディアより」
ただし、斎藤義龍は「斎藤氏」ではなく、「一色(いっしき)」という姓を名乗っていたので、斎藤家の家紋「撫子紋」は、使っていなかった可能性があります。
父「斎藤道三」が使っていた家紋とは?
「斎藤義龍(高政)」の父「斎藤道三(利政)」は、「二頭波紋(ふたがしらなみもん)」という家紋を使用していました。

【二頭波紋】
「引用元ウィキペディアより」
この家紋は、「斎藤道三」がオリジナルで作成し、使用した家紋です。
どうやら、「波」というものが、兵法に通じる意味をもっていたため、道三はこの「波」の家紋を常に身近においたようです。
しかし、息子の「斎藤義龍」は、父が愛した「二頭波紋」を使用しませんでした。
やはり父を殺害した義龍からすれば、父の家紋を使う気にはならなかったのでしょう。
「斎藤道三」の家紋について、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
斎藤義龍(高政)は、足利家と同じ「二つ引両」の家紋を使っていた?
「斎藤義龍(高政)」は、武士のトップに君臨した「足利将軍家」と同じ家紋「二つ引両紋」を使っていた可能性があります。

《足利二つ引両紋》
「引用元ウィキペディアより」
実は「斎藤義龍」、足利将軍家の分家である「一色家」を名乗っていたのです。
義龍の母「深芳野(みよしの)」は、「一色家」の出身であるといわれています。
父「道三」を殺した義龍は、「一色」を名乗っていますので、一色家の家紋「二つ引両」を使ことも可能だったかもしれません。
しかし、「二つ引両」は、足利将軍家の家紋です。
斎藤義龍は、室町幕府・第13代征夷大将軍「足利義輝」から、「一色」の姓を使うことを許されています。
ところが、「二つ引両」の家紋を使うことまで許されていたかは、わかりません。
ハッキリとはしていませんが、「義龍」はもしかすると、「二つ引両」の家紋を使用していたかもしれません。
「足利家の家紋」については、以下のリンク記事で、くわしく解説しております。
義龍が名乗った「一色家」とは、どういう家柄なのかを、くわしく解説?
「一色家」は、当時「武士たちのトップ」に君臨していた征夷大将軍の家柄である「足利家」の分家にあたります。
当時から、「一色家」は名門として、とても高い格式を誇っていたはずです。
「室町幕府」を開いた「足利尊氏」の《ひいおじいさん》である「足利頼氏」。
その「足利頼氏」の弟「一色公深(いっしき きみふか)」が、「一色家」の始祖です。
「一色家」は、「足利家」の分家として、「足利尊氏」とともに「鎌倉幕府」や「後醍醐天皇」と戦っています。
そして「一色家」は、「室町幕府」の成立にも功績を残しているのです。
「三管四職(さんかんししき)」
室町幕府における重臣を「三管四職」といいますが、「一色家」はこの「四職」という4つの家柄の筆頭に数えられています。
一色家は、「室町幕府」のなかで、特に重要な地位を占めていた、まさに「名門のなかの名門」なのです。
ちなみに、「三管四職」とは、
- 「細川家」
- 「畠山家」
- 「斯波家」
の「三管領家」と
- 「一色家」
- 「京極家」
- 「赤松家」
- 「山名家」
の「四職」という、合計7家のことです。
このうち「細川家」と「山名家」による権力争いが、「戦国時代」のはじまりである「応仁の乱」を引き起こしたのです。
「応仁の乱」について、詳しくは、以下のリンク記事で、解説しております。
まとめ
本日の記事をまとめますと
1,「斎藤義龍(高政)」がつかった家紋は、「五三桐紋」。もともと斎藤家は「撫子紋」をつかっていた。
2,義龍の父「斎藤道三」は、「二頭波紋」という、オリジナルの家紋を使用していた。息子「義龍(高政)」は、「二頭波紋」を使っていない
3,義龍は、足利将軍家の分家である「一色家」を名乗り、将軍「足利義輝」からも、「一色」を名乗ることを認められていた。ハッキリとはわからないが、「二つ引両」の家紋についても、使用が許されていた可能性がある。
以上となります。
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