三淵藤英が自害した理由と最期の様子!切腹した原因は明智光秀の罠?

この記事では「三淵藤英(みつぶち ふじひで)」が「なぜ自害したのか」について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。
これを読めば「三淵藤英の最期」を、カンタンに理解できます。
「三淵藤英」がなぜ自害したのか、その理由は今もハッキリとはしていません。
しかし、もしかすると「明智光秀の罠」で亡くなったのではないでしょうか。
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この記事を短く言うと
1,三淵藤英の最期とは?
【天正2年(1574年)7月6日】、「三淵藤英(みつぶち ふじひで)」は、「明智光秀」の居城「坂本城」で、嫡子「秋豪(あきひで)」とともに自害して亡くなった。
2,三淵藤英が自害した理由とは?
織田信長からの命令で亡くなった。なぜ自害を命じられたのか、ハッキリとした理由は不明
3,三淵藤英の子どもたちは、その後どうなったのか?
嫡子「秋豪」は父とともに自害。次男「三淵光行」は「徳川家康」の旗本として仕えた。他の子供達は、いとこ「細川忠興」に仕えた
目次
「三淵藤英」の最期は、どのように訪れたのか?
【天正2年(1574年)7月6日】、「三淵藤英(みつぶち ふじひで)」は、「明智光秀」の居城「坂本城」において、嫡子「秋豪」とともに自害して亡くなっています。

三淵家の家紋「揃い二つ引」
「引用元ウィキペディアより」
三淵藤英とは、室町幕府13代将軍「足利義輝」に仕えた武将です。
弟の「細川藤孝」は、戦国時代一の知識人だった名将です。
三淵藤英は、弟「細川藤孝」とともに「足利義輝」につかえていました。
【1565年】、「永禄の変」が勃発。
「岩成友通」たち「三好三人衆」が、「足利義輝」を暗殺してしまいます。
すると「三淵藤英」は、弟「藤孝」とともに、興福寺に出家していた「義輝」の弟「足利義昭」を救出し逃亡。
越前国の大名「朝倉義景」を頼っていきます。
3年後、「三淵藤英」と「義昭」は、美濃・尾張を支配していた武将「織田信長」を頼ります。
【1568年】、「岩成友通」たち「三好三人衆」を京都から追放した「信長」は、「義昭」を、15代征夷大将軍に就任させます。
ところが、今度は「足利義昭」と「織田信長」のあいだで抗争が勃発。
三淵藤英は「足利義昭」に味方し、弟「細川藤孝」は「織田信長」に味方します。
【1573年】、「義昭」が信長に敗北(槇島城の戦い)。
「義昭」は京都から追放され、「室町幕府」は滅亡。
このとき、「三淵藤英」も信長を相手に徹底抗戦したものの、「柴田勝家」と弟「藤孝」の説得により降伏。
信長に臣従することになります。
三淵藤英は、信長に降伏すると、直後に「淀城」に籠城していた「三好三人衆」の一人「岩成友通」を討ち取るように命令されます。
弟「藤孝」とともに、「足利義輝」のカタキである「岩成友通」を討ち取った三淵藤英でしたが、悲劇はすぐそこまで迫っていました。
【1574年】、三淵藤英は居城の「伏見城」を信長に取り上げられます。
そして、盟友「明智光秀」の居城「坂本城」で自害するように命じられるのです。
【天正2年(1574年)7月6日】、「三淵藤英」は嫡子「三淵秋豪(あきひで)」とともに、自害して亡くなります。
「三淵藤英」が自害した理由とは?
「三淵藤英」が自害した理由は、何だったのでしょうか?
実は「自害の理由」は、今も謎に包まれています。
もしかすると、「三淵藤英」は「足利義昭」と密かに連絡を取り、信長の命を狙ったのかもしれません。
「三淵藤英」は、実は息子の「秋豪」とともに、弟「細川藤孝」の暗殺を計画しています。
【1573年】、「足利義昭」と「織田信長」が開戦すると、「細川藤孝」は義昭を裏切って信長に味方しています。
これに激怒した「三淵藤英」と「秋豪」の親子が、藤孝襲撃を計画し、失敗しているのです。
信長は、この後「足利義昭」を追放し、「三淵藤英」にたいして「岩成友通」の討伐を命令。
これに成功した「三淵藤英」は、禊(みそぎ)、つまり信長に逆らった罪を償ったといえるでしょう。
それにもかかわらず、「岩成友通」を討ち取ったあとに自害させられるとは、「三淵藤英」が何かしらの罪を犯したと考えるのが自然でしょう。
「足利義昭」と、密かに連絡を取っていたのかもしれません。
それだけなら、自害を命じられるには至らないでしょう。
三淵藤英は、「足利義昭」の命令で、「織田信長」の命を狙ったのではないでしょうか。
「足利義昭」への忠誠心が厚く、さらに信長に近づくことが出来た「三淵藤英」なら、暗殺には適任だったはずです。
弟「細川藤孝」の暗殺を企んだ程ですから、度胸もあったのでしょう。
そのことが、「細川藤孝」か「明智光秀」の密告により露見したのだとしたら・・・。
三淵藤英がなぜ「自害」しなくてはいけなかったのか、いまだにハッキリとした理由はわかっていません。
しかし、自害を命じるとは、よほど信長を怒らせたのだと思います。
これは筆者の完全な妄想でしかないのですが、「三淵藤英」は「明智光秀」の罠で殺されたのではないでしょうか。
光秀はもともと「足利義昭」の家臣でした。
しかし、「義昭」と「信長」が敵対すると、光秀は「細川藤孝」と同じように、織田信長に味方しているのです。
「三淵藤英」は、「義昭」を裏切った弟「藤孝」に激怒していました。
ということは、「義昭」を裏切った「明智光秀」にも、怒りをつのらせていたはずです。
光秀は、そんな三淵藤英の存在を、厄介だと感じたのではないでしょうか。
そのため、信長にあることないことをでっち上げて、三淵藤英を自害へと追いやった・・・。
これは筆者の憶測でしかありません。
しかし、「細川藤孝」が「本能寺の変」のあと、「明智光秀」を見捨てていることからしても、「明智光秀」と「細川藤孝」には、何かしらの確執のようなものがあった気がするのです。
三淵藤英。自害の理由は、いまだにハッキリしていませんが、光秀の罠にはまった可能性もあるのではないでしょうか。
三淵藤英の子供は、その後どうなったのか?
三淵藤英の子どもたちは、その後、「徳川幕府」の「旗本」になったり、「細川藤孝」に仕えたりと、各地で活躍しています。
藤英の嫡子「秋豪(あきひで)」は、父とともに自害しています。
次男「三淵光行」は、叔父「細川藤孝」に育てられ、【1600年】の「関ヶ原の戦い」の前哨戦「田辺城の戦い」で、藤孝とともに田辺城へ籠城しています。
光行は、叔父を助けて奮戦したその働きを徳川家康にほめられ、徳川家旗本に取り立てられています。
そのほかにも、三淵藤英には、
- 「朽木昭貞」
- 「朽木昭知」
- 「朽木昭長」
という子供達がいましたが、彼らは「藤孝」の息子「細川忠興」に仕えて、「肥後細川家」で家名を存続しています。
「三淵藤英の死」と「明智光秀の最期」
三淵藤英が亡くなった8年後の【1582年】、「明智光秀」は「山崎の戦い」に敗北し、亡くなります。
「本能寺の変」で「織田信長」を討ち果たしてから、わずか11日後のことでした。
光秀は、姻戚関係にあった盟友「細川藤孝」に対して、何度も何度も「味方になってほしい」と頼み込んでいます。
しかし、藤孝はそんな明智光秀を、冷たく見放したのでした。
光秀は「羽柴秀吉」の圧倒的な軍団に撃破され、落ち武者狩りに襲われて亡くなります。
細川藤孝は、この後「豊臣秀吉」や「徳川家康」からの信頼を勝ち取り、息子「細川忠興」は、「肥後熊本」に「54万石」という巨大な領地を保有する事となるのです。
「細川藤孝」が「明智光秀」を見放したことで、光秀は一気に破滅したのです。
もしも「藤孝」が光秀に味方していたら、歴史はどう転んでいたかわかりません。
藤孝は、「光秀」を見捨てたとき、何を思っていたのでしょうか。
光秀の居城「坂本城」で自害した兄「三淵藤英」のことを思っていたのでしょうか。
もしかすると藤孝は、光秀や藤英とともに仕えた異母弟「足利義昭」のことを思っていたのかもしれません。
「細川藤孝」と「足利義輝・義昭」は、異母兄弟だったという説があります。くわしくは以下のリンク記事で、解説しております。
まとめ
本日の記事をまとめますと
1,【天正2年(1574年)7月6日】、「三淵藤英」は、「坂本城」で、自害して亡くなった。
2,なぜ自害を命じられたのか、ハッキリとした理由は不明
3,三淵藤英の嫡子「秋豪」は父とともに自害。次男「三淵光行」は「徳川家康」の旗本として仕えた。他の子供達は、いとこ「細川忠興」に仕えた
以上となります。
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