この記事では「三好長慶の城」について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。
これを読めば「三好長慶とゆかりのある城」を、カンタンに理解できます。
「三好長慶」は「勝瑞城」で生まれ、「飯盛山城」で亡くなったのです。
歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。
どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
この記事を短く言うと
1,「三好長慶」の居城はどこ?
三好長慶の居城は「勝瑞城」「越水城」「芥川山城」「飯盛山城」
2,「三好長慶」の最後の居城「飯盛山城」と伝説の名将「楠木正成」の関係とは?
「飯盛山城」は、「楠木正成」の息子「楠木正行」が、「高師直」に討たれた場所。飯盛山城には「楠木正行」の像が建てられている
3,「飯盛山城」は、三好長慶の死後、どうなったの?
飯盛山城は、三好長慶が病死した12年後の【1576年】に、織田信長によって廃城となった
「三好長慶」の歴代居城を、順番に解説!
「織田信長」の前の天下人「三好長慶」は、「飯盛山城」を居城としていました。

《三好長慶》
「引用元ウィキペディアより」
三好長慶が居城とした城を、以下に一覧でご紹介いたします。
以下の順番で、三好長慶は「居城」を移っています。
- 「勝瑞城(しょうずいじょう)」
- 「越水城(こしみずじょう)」
- 「芥川山城(あくたがわやまじょう・別名「芥川城」)」
- 「飯盛山城(いいもりやまじょう・別名「飯盛城」)」
三好長慶は、「勝瑞城」で生まれ、「飯盛山城」で病死しています。
「三好長慶」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
「三好長慶」の居城を、地図付きで解説!
次に、「三好長慶」の居城の場所・位置を、地図でご紹介いたします。
阿波国「勝瑞城」(徳島県板野郡藍住町)
摂津国「越水城」(兵庫県西宮市)
摂津国「芥川山城」(大阪府高槻市)
河内国「飯盛山城」(大阪府大東市および四條畷市)
最期の居城「飯盛山城」と楠木正成との関係とは?
この「飯盛山城」は、「三好長慶」が居城とする【200年】くらい前、「小楠公(しょうなんこう)」と呼ばれた名将「楠木正行(くすのき まさつら)」が陣を布いていた場所です。
「楠木正行」とは、「南北朝時代」に「後醍醐天皇」に従い、「大楠公(だいなんこう)」とよばれた伝説の名将「楠木正成」の息子です。
「楠木正成」とは、わずか「5百」の軍団で、「北条軍・数十万」を撃破した名将。
そして「湊川の戦い」で「足利尊氏」に敗北した悲劇の武将でもあります。
【1348年】、「楠木正行」はこの「飯盛山城」に陣を置き、宿敵「足利尊氏」の部下「高師直」や「佐々木道誉」と激突。
「四條畷の戦い(しじょうなわてのたたかい)」
この戦いで、「楠木正行」は命を落とすのです。
現在「飯盛山城」には、「楠木正行」の銅像が建てられています。
四條畷神社の裏手から、「飯盛山城」へと登るための山道があります。
「楠木正成」については、以下のリンク記事で、くわしく解説しております。
「飯盛山城」は、その後どうなったのか?
「飯盛山城」は、【1576年】に「織田信長」に攻め落とされた直後、廃城となっています。
【1564年】、「三好長慶」は「飯盛山城」で病死します。
その4年後、織田信長が京都を支配します。
「三好三人衆」
信長が上洛をした【1568年】に、「三好三人衆」こと「三好長逸・三好政康・岩成友通」の三名は、信長に降参。
同時に「飯盛山城」は「畠山秋高」が城主となります。
しかし、「畠山秋高」が「遊佐信教」の反乱で殺されると、信長は激怒して「飯盛山城」にたてこもった「遊佐信教」を攻撃。
【1576年】、陥落した「飯盛山城」は、織田信長によって廃城となったのでした。
現在でも、「飯盛山城」の遺構である「石垣」が残っています。
まとめ
本日の記事をまとめますと
1,「三好長慶」の居城は「勝瑞城」、「越水城」、「芥川山城」、「飯盛山城」
2,「飯盛山城」は、「楠木正成」の息子「楠木正行」が、「高師直」に討たれた場所。飯盛山城には「楠木正行」の像が建てられている
3,飯盛山城は、三好長慶が病死した12年後の【1576年】に、織田信長によって廃城となった
以上となります。
本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。
よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。
ありがとうございました。
「三好長慶」関連記事
よろしければ、以下のリンク記事も、ぜひお役立てくださいませ。
コメント