本能寺の変【秀吉黒幕説】わかりやすく解説!光秀は秀吉に操られてた

皆さんは「本能寺の変」について「秀吉黒幕説」を、ご存知でしょうか?

 

実は「秀吉黒幕説」の内容を、くわしく知っている方は、それほど多くないみたいです。

 

この記事では「羽柴秀吉・黒幕説」を、わかりやすく、みじかく、カンタンに解説いたしました。

 

今は「本能寺の変・秀吉黒幕説」について、漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。

 

これを読めば、誰かに説明できるほど、「秀吉黒幕説」に詳しくなれます。

 

この記事を読んで、「本能寺の変」と「秀吉黒幕説」の疑問をスッキリと解消していただけたら、これほど嬉しいことはありません。


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どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

 

1,「秀吉黒幕説」とは、「本能寺の変」は「羽柴秀吉(豊臣秀吉)」による策略であり、「織田信長」を討った「明智光秀」は、秀吉に操られていたか、または秀吉と協力していた説のこと

 

2,秀吉が「明智光秀」を操っていた可能性を、光秀の子孫である「明智憲三郎」氏が指摘している

 

3,【1582年】、「本能寺の変」「山崎の戦い」で「織田信長」「明智光秀」が亡くなったわずか「8年後」に、「豊臣秀吉」が天下統一に成功した

本能寺の変【羽柴秀吉・黒幕説】をわかりやすく解説

「秀吉黒幕説」とは、「明智光秀」が「織田信長」を討った「本能寺の変」は、「羽柴秀吉(豊臣秀吉)」による策略であり、光秀は秀吉に操られていた、または秀吉と協力していた・・・という説です。

羽柴秀吉(豊臣秀吉)
「引用元ウィキペディアより」

この「秀吉黒幕説」がとなえられるようになった一番の理由は、「本能寺の変」で結果的にもっとも得をしたのが「秀吉」だったからです。

 

秀吉は「本能寺の変」を最大限に利用して、織田家を乗っ取り、わずか8年で「天下統一」を成功させています。

 

朝廷から、最高位の「関白」「太政大臣」という身分をもらって、日本を支配した「豊臣秀吉」。

 

「本能寺の変」の黒幕は、本当に「秀吉」なのでしょうか?


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明智光秀は、羽柴秀吉に操られていた?

「秀吉黒幕説」の真実について考えてみましょう。

 

結論からいいますと「本能寺の変は、秀吉が黒幕だった」という説は、可能性が低いと思います。

 

ただし、秀吉がまったく何も関わっていなかった、というわけではないと考えられます。

 

やはり、秀吉は「本能寺の変」であまりにも動きが素早いです。

 

しかも、「信長」が死んだことで、あまりにも得をしすぎています。

 

なぜ秀吉は、「本能寺の変」であれほどまでに「得」をすることができたのでしょうか?

 

明智光秀は、「羽柴秀吉」に操られていた可能性があります。

 

秀吉は「明智光秀」とともに、「本能寺の変」が起こる前から「信長の死」を計画していた・・・のではありません。

「光秀が信長を殺すかもしれない。

その時、誰よりも早く明智光秀を倒して仇討ちをする。

そうすれば、織田家を乗っ取ることも出来る。

そのために、短時間で京都へ戻れるように、準備をしていた」

ということです。

 

光秀は、秀吉との「派閥争い」で、かなり追いつめられていた可能性があるのです。

 

四国の大名「長宗我部元親」

 

光秀は「長宗我部元親」と「織田信長」の同盟を、長宗我部氏との交渉役として担当しています。

 

対して秀吉は、その「長宗我部」と四国で争っていた「三好康長」と交渉をして、「三好康長」を信長に降伏させているのです。

 

四国では、「光秀」と「秀吉」の代理戦争が起こっていました。

「明智光秀・長宗我部元親」

VS

「羽柴秀吉・三好康長」

この戦いに、信長は「秀吉と三好康長」を選択。

 

あろうことか信長は、「光秀」が肩入れしていた「長宗我部元親」を討伐するために、三男「織田信孝」を総大将とする「四国遠征軍」を組織したのです。

 

これで「明智光秀」のメンツは丸つぶれ。

 

挙句の果てに、光秀は「中国地方で戦う羽柴秀吉の援軍にいけ」と命じられます。

 

援軍に行けとは、すなわち「光秀は、羽柴秀吉の部下として、その命令に従え」という意味。

 

派閥争いに完全に負けた・・と感じた明智光秀は、このままでは「佐久間信盛」や「林通勝」のように、織田家を追放されると感じたはずです。

 

おそらくこれは、「秀吉」による「光秀追い落とし」の策略でしょう。

 

秀吉は光秀を、まんまと追い落としたのです。


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秀吉が「山崎の戦い」で「明智光秀」を討った「その後」

秀吉は、「山崎の戦い」で明智光秀に勝利し、その後「清洲会議」と「賤ヶ岳の戦い」で、織田家を完全に乗っ取ります。

 

そして「本能寺の変」からわずか8年後に、「天下統一」を成功させています。

 

ところが、【1598年】に豊臣秀吉が亡くなると、豊臣家は一気に衰退していきます。

 

秀吉の死後わずか17年で、「豊臣家」は「徳川家康」の手で滅亡してしまうのです。

 

秀吉は、徳川家康とは違って、自分の死後の政治体制を強くしていませんでした。

 

幼い息子「豊臣秀頼」の周囲を守るための人材が、あまりにも乏しかったのです。

 

もしも甥の「豊臣秀次」か、又は弟の「豊臣秀長」が生きていたら、これほどあっけなく豊臣家が滅亡することはなかったと思います。


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『豊臣秀吉』について「ひとこと」いいたい

秀吉という人物は、「太閤記」などの物語で、「人を殺さない心優しい人物」として描かれています。

 

しかし、それは現実からは程遠いものと考えざるを得ません。

 

秀吉は、天下人となってからは、かなり残酷な処刑を繰り返しています。

 

もっとも有名なのが、「豊臣秀次」の一族・妻子を30名ちかく、全員処刑したことでしょう。

 

「伊達政宗」の伯父「最上義光(もがみ よしあき)」の娘「駒姫」は、「豊臣秀次」の側室となるため、山形から京都へ向かっていました。

 

まだ正式に豊臣秀次と結婚していないのに、駒姫は秀吉によって処刑されています。

 

筆者の個人的な印象でしかありませんが、「織田信長」「豊臣秀吉」「徳川家康」の中で、「豊臣秀吉」という人物は、もっとも恐ろしい人物に感じられます。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

1,「秀吉黒幕説」とは、「本能寺の変」が「羽柴秀吉(豊臣秀吉)」による策略であり、「織田信長」を討った「明智光秀」は、秀吉に操られていた、または秀吉と光秀が協力して起こした事件である、という説

 

2,秀吉は「明智光秀」が謀反を起こすことを待っていた、という説を、光秀の子孫である「明智憲三郎」さんが指摘している

 

3,【1582年】、「織田信長」「明智光秀」が亡くなってから、わずか「8年」で、「豊臣秀吉」は天下統一を達成している

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

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ありがとうございました。


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